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2006年03月03日

 ■ 藤田歯科医院の歴史

藤田歯科医院の誕生は,遠く昭和二年にさかのぼります。先々代、藤田安二郎の長男として生を受けた先代広次が、歯科の道をすすむようになったのは、安二郎の仕事が多いに関係がありました。当地で盛大にお菓子の製造に励んでいた安二郎は、職業上虫歯がふえることを危惧し、息子の広次に歯科医になるよう強力にアプローチ、嘘っぽいけど本当の話。文学青年だった広次はかなりの抵抗があったようですが敢えて妥協、専門学校へ進む事とあい為りました。

歯科専門学校を主席で卒業し栄誉の銀時計組となった広次は、当時の慣習を破り学校に残らず敢えて開業の道へ進みました。実は安二郎の思惑が多いに左右したようであります。それでも小倉で開業したのは、学校にすぐ行けるという思惑からで安二郎に対する小さい抵抗があったようです。小倉記念病院で一年間研鑚に励んだ後、小倉市香春口二丁目にて開業しました。

 さて、小倉時代の広次は一見優雅な生活を、送っていたようでしたが、それは場所的に当時の小倉兵器場の近くだったこともあって、患者さんの来院が夕刻から夜にかけて押し寄せていたからのようでした。その反面昼からは暇で、近くの喫茶店へコーヒーを飲みにいったり、小倉競馬場へ遊びに行ったりで、知らない人はさぞ良い生き方をと思ったでしょう。でも夕方からのラッシュにそなえてのリフレッシュだったようです。
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 そうした華やかだった小倉時代も戦争と共に、苦難の時となりました。患者さんは先述のように兵器を作る場所の近くで、忙しさを増し暇は無くなり、おまけに第一回の北九州の爆撃を受け、被害こそ無かったが、今度は強制疎開、有無を言わせない立ち退き命令に、さすがの父もメイファース、あちこちと捜し回ったが良い場所が無く、いっそ直方に帰ろうかと言うことになったがさて、医者は小倉からは出ては行けないという軍命令、進退ここにきはまれり、と云うときに、なんとか好くしたもので救いの神、直方に帰れるようになった次第です。
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 広次が、こうまでして小倉を出たかったのは、北九州の第一回目の米軍の空襲に合った、空襲を体験した者でないと、その恐怖はわからないと思います。自分は残っても、家族は心配のない直方へと陳情し、無事全員帰れることになりました。
直方に帰ってからというものの環境最悪、物資は無く、開業しようにも、設備が出来ない。かろうじて小倉より持ち帰った機材でどうにかまね事みたいな開業だったようです。それも安二郎時代の職人さんたちが、集まってくれて大工さんのまね事をやってくれての、かろうじての開業だったということです。

その後広次は、終戦、そして敗戦後の混乱期を乗り越えやれやれという時に、体調を崩したのですが、幸い和義が歯科大学を卒業して跡を続けるようになった。後年は入退院を繰り返しながらも小康を保っていたが、昭和五十六年三月十二日、逝去。当年七十五歳でした。


Sohu4.jpgワイシャツにネクタイ、そして白衣、このスタイルは終身くずすことなく、たとえ患者さんを診療しなくても治療室に出る時は、必ずこのスタイルで決めていました。

投稿者 fujix : 2006年03月03日 10:40

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